レファレンス事例集

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ご質問と回答

Q. 1972年に都市交通審議会が出した都市交通審議会答申第15号に「9号線として小田急多摩線が1985年までに多摩ニュータウン中央から橋本方面に延伸されるべき」と書かれており、多摩センター以西も京王相模原線と並走する計画であったことがわかる。一方、現在の小田急多摩線は多摩センターで唐木田方面に分岐し、橋本方面には行かない。この都市交通審議会が当初の計画を変更したのはいつ頃であったか。また、南大沢または南大沢にあたる駅の開業計画は存在したか。

都市交通審議会が当初の計画を変更したのはいつ頃であったか。

答申に書かれた内容が変更されたことを確認するには、その更新版を確認すると良いかと思います。『都市交通審議会答申第15号』(1972年)の更新版は『運輸政策審議会答申第7号』(1985年)です。(最後に紹介した資料をまとめております。)

  • 『都市交通審議会答申第15号』(1972年)から引用
    「9号線 橋本-多摩ニュータウン中央-新百合丘…(略)…綾瀬」
  • 『運輸政策審議会答申第7号』(1985年)から引用
    「9号線 …唐木田-多摩センター-新百合ヶ丘…(略)…喜多見…(略)…綾瀬」

以上から、運輸省の審議会では、1972年から1985年の間に9号線の経路の変更を検討、決定したと思われます。よって、運輸省が当初の計画を変更したのは「1972年から1985年の間」といえます。

 

つづいて、小田急線の記録も調べました。本館所蔵『小田急五十年史』に、「喜多見~城山」の敷設免許出願・取得について記載がありました。p.489に「多摩路線図」という図も掲載されております。

  • 『小田急五十年史』p.488~490から一部抜粋
    小田急は、1964年1月、喜多見から城山間の鉄道敷設免許を申請した。これは喜多見で本線と分岐して北西に走り、 (中略)ニュータウンの東端から入って地域の北辺をかすめ、南西に貫通し、横浜線橋本駅から城山町に至るものである。 (中略)城山まで全線の免許がおりたのは1966年7月31日であった。 (中略)1967年6月1日、先に免許を得た路線のうち喜多見~稲城本町および稲城本町~多摩間の営業廃止許可を申請する一方、新たに百合ケ丘~多摩間の免許を申請し、同年12月14日に免許を得た。

小田急線は当初、現在の路線(新百合ヶ丘~多摩センター)ではなく、「ニュータウン中央は通らず、ニュータウンの北側を走るルート」を予定していました。その後、この「喜多見~城山」計画のうち、「喜多見~多摩」を1967年6月に営業廃止としていますので、小田急線が当初の計画を変更したのは「1967年6月」といえます。 しかし、「喜多見~城山」のうち、営業廃止申請をしたのは「喜多見~多摩」であり、「多摩~城山」は残していたことから、この区間の計画はまだ続いていた、と考えることもできると思います。『小田急五十年史』には「多摩~城山」については触れられておらず、1967年以降、橋本・城山方面までの計画が続いていたのか、断念していたのかはわかりませんでした。

 

南大沢または南大沢にあたる駅の開業計画は存在したか。

先に紹介した、『小田急五十年史』の「多摩線路線図」にて、「由木」という名称が確認できました。小田急線の当初の予定ルート上であり、南大沢に近しい箇所と思われますが、これが南大沢または南大沢にあたる駅かは、確認することができませんでした。

 

参考文献(すべて本館所蔵)

『東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について : 運輸政策審議会答申第7号』
運輸省地域交通局編. -- 運輸経済研究センター, 1985
資料ID:002078247

『小田急五十年史』
小田急電鉄株式会社編. -- 小田急電鉄, 1980
資料ID:000354863

『多摩ニュータウン構想 : その分析と問題点』
東京都首都整備局都市計画第一部南多摩新都市計画課編. -- 東京都南多摩新都市開発本部, 1968.
資料ID:001770687

久保田 金太郎ほか「京王相模原線延伸物語」
『多摩ニュータウン研究』No.11 p.156-165, 2009
資料ID:10002170829

(回答:本館 回答日:2024.3.15)

 
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