貴重資料

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水野家文書 紹介

水野家文書について

水野忠邦・忠精の自筆手記などを含み、天保改革、幕末外交史及び唐津・浜松・山形などの藩政史の資料です。

伝来の経緯

水野家文書は、譜代大名水野家に伝えられた大名史料です。本学名誉教授松平斉光氏が第2代東京都立大学付属図書館長を務めていた1952(昭和27年)に、その友人であった水野家当主水野忠款氏のご好意により図書館への寄贈をうけました。

出所の歴史

水野家は、『寛政重修諸家譜』によれば、譜代大名5家、旗本が20家以上を数えますが、その主流は、清和源氏多田満仲の弟鎮守府将軍満政を祖と称する満政流で占められています。満政の子孫が尾張知多郡小河庄に住み、在地領主として成長し、戦国初期には三河に進出して刈谷に築城しました。譜代大名の水野5家は、いずれも刈谷城主水野忠政の子や孫を祖とする同族です。

当館所蔵水野家文書の旧蔵者にあたる水野家は、忠政の4男忠守の3男忠元を藩祖としています。忠守は、はじめ尾州小河城を守り織田信長につかえたのち、徳川家康に従い、1590(天正18年)家康の関東入部にさいして相模国玉縄城を預りました。家康の生母お大は水野忠政の娘で、忠守はお大の同母兄なので、忠元は家康と従兄弟の間柄になります。忠元はこの徳川氏の「御外戚」という由緒とともに、2代将軍秀忠に近侍して1615(元和元年)大坂の陣で戦功をたて、下総結城郡山川城3万石を与えられ、譜代大名となり、幕府年寄に就任しました。ついで、同3年に5千石を加増されています。

2代藩主忠善は9才で家督をつぎましたが、山川城から駿河田中城へ、ついで三州吉田城へ、さらに1617(正保2年)に同国岡崎へと3度の国替えを経験しました。その間に、たびたび加封されて領知高5万石を得ています。3代忠春は初期藩政改革に着手するとともに、奏者番と寺社奉行を拝命し、幕府の役職につく先例を重ねて開きました。

4代藩主忠盈は忠春の次男で、1692(元禄5年)に21才で家督をつぎましたが、わずか7年で死去しました。発病したとき男子がいなかったので、弟忠之が31才で本家をつぎ、5代藩主となりました。忠之は藩政上で「中興の英主」とされますが、幕政でも奏者番・若年寄・所司代をへて1717(享保2年)に老中に昇進し、8代将軍吉宗の享保改革における勝手掛老中として活躍した人物としても知られています。この間に加増をうけて、6万石となりました。

6代藩主忠輝は40才の壮令で家督をつぎ、47才で死去しました。7代忠辰は1737(元文2年)14才で父の遺領を継ぎ、藩政改革に着手しましたが、老臣層の抵抗にあって座敷牢に監禁され、29才の短かい生涯を終えました。忠辰の養子忠任が8代藩主となって10年目の1762(宝暦12年)9月に、肥前唐津へ転封を命ぜられ、6代・128年にわたる岡崎在城に幕がおろされました。

唐津在城は8代忠任・9代忠鼎(ただかね)・10代忠光・11代忠邦と4代・56年間にわたります。その間、藩体制の動揺はいっそう深刻となり、表高5万石にたいして、内高ゆうに20万石といわれたほど豊かな藩領を擁しながら、藩財政のゆきづまりから農民へ重税を課し、1771(明和8年)の大一揆を招きました。忠鼎・忠光ともに藩政改革への意欲を示しましたが、十分な成果をあげないまま藩主の地位から引退しました。

11代藩主となった忠邦は、幕府の天保改革を推進した人物として有名です。文化9年(1813)に19才で藩主になると同時に、藩政改革の宣言を発して改革の陣頭指揮をとり、1845(弘化2年)に家督を世子忠精(ただきよ)にゆずるまでその姿勢はつづけられました。同時に、忠邦の幕政改革への抱負も早くからめばえており、1817(文化14年)についに遠州浜松への転封に成功し、1834(天保5年)本丸老中となり、ついで勝手掛を兼ね、同11年に老中首座に昇進しました。翌12年5月大御所家斉の長逝を待って天保改革を開始し、以後2年半にわたって「士農工商おしからめておののくばかり」(『寝ぬ夜のすさび』)といわれた恐怖政治をしきました。忠邦は株仲間解散令や上知令などそれまでの諸改革になかった新しい政策を打出し、全般的な危機の段階に突入した幕藩制の解体過程に対応する領主的改革の積極性を示したのですが、みるべき成果をあげることなく失脚しました。

忠邦のあと家督をついだ12代忠精は、父の天保改革の政治責任に対する懲罰的な転封により減封のうえ出羽国山形へ移されましたが、1862(文久2年)から、幕府倒壊の前年、1866(慶応2年)まで父と同様に老中を務め、とくに外交掛として多難な幕府外交の衝にあたりました。いっぽう、藩主としても、父の遺志をついで財政改革・軍制改革に力を入れ、後者においては、洋式軍備の採用が忠邦のときよりいっそう進みました。

このように、水野家は将軍家の「御外戚」という譜代大名中の名門である由緒をもつとともに、幕政と深い関係をもち、12人の藩主のうち、忠元、忠之、忠邦(2回)、忠精と、老中4人を輩出しました。

支配の変遷

1615(元和元年)下総山川城3万5000石→1635(寛永12年)駿河田中4万5000石→1642(寛永19年)三河吉田4万5000石→1645(正保2年)三河岡崎5万石→1725(享保10年)6万石→1762(宝暦12年)肥前唐津6万石→1817(文化14年)遠江浜松→1839(天保10年)1万石加増7万石→1845(弘化2年)出羽山形5万石

数量

約3000点

年代

1543(天文12年)~1905(明治38年)

全体構造と内容

水野家文書の特色の一つは、幕政関係の史料、とくに忠邦の日記をふくむ天保改革期の史料と、忠精の関係による幕末外交と幕府の国産統制計画に関する史料などが伝えられていることにあります。藩庁関係の史料は、転封をくりかえしたことからあまり伝存していませんが、天保期以降の金銭御勘定帳や奥入用御勘定帳など財政構造を知る史料があり、忠邦の浜松藩時代、忠精の山形藩時代の史料が比較的まとまっています。明治期の家政史料としては勘定帳があり、華族財政の様子を知ることができます。

『水野家文書目録』では、A. 幕政 B. 藩政 C.学芸 D.絵図 E.蔵書 F.書画 G.遺品の7つの大項目に史料を分類しています。

関連史料の所在

国立公文書館内閣文庫「水野忠邦旧蔵本」261冊(改定内閣文庫国書分類目録)

参考文献

東京都立大学付属図書館蔵『水野家文書目録』1974
北島正元『水野忠邦』(吉川弘文館、人物叢書154、1969)
藤田覚『水野忠邦 政治改革にかけた金権老中』(東洋経済新報社、1994)

系図

忠政(家祖)-忠守-忠元(初代藩主)-忠善(二代藩主)-忠春(三代藩主)-忠盈(四代藩主)-忠之(五代藩主)-忠輝(六代藩主) -忠辰(七代藩主)-忠任(八代藩主)-忠県(九代藩主)-忠光(十代藩主)-忠邦(十一代藩主)-忠精(十二代藩主)-忠弘(十三代藩主)

 
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