貴重資料

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品川台場絵図

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史料群

水野家文書

分類記号

D1-29

作成(内容)年代

天保9年

西暦

1838

点数

2枚

法量

28*41

備考

包紙1通あり

参考文献

藤田覚『幕藩制国家の政治史的研究-天保期の秩序・軍事・外交』(校倉書房、1987年)

説明

1枚は、品川台場の設計図で、品川の沖合いから深川までの間に、一番台場から十一番台場までを配置し、各台場の陸からの距離、側面の間数、満潮時の平均的な深さが記載されている。もう1枚は、江戸湾に進入した異国船に対する各台場からの砲撃射程の予想図。

水野忠邦の天保改革期には江戸湾防備の必要に迫られ、江戸湾を中心とする全国の海岸防備の強化が進められた。天保13年(1842)8月には、忍・川越両藩に対して、相模・安房・上総の江戸湾の海岸の防備を命じ、台場の新設などの防備強化を指示し、同時にそれぞれの持ち場付近に替地を与えた。12月には下田奉行所の復活と同時に、羽田奉行の新設を決定した。こうして、相模・安房・上総の江戸湾に面する海岸線の防備を忍・川越両藩に委任し、江戸近辺の海岸線の防備は幕府が直轄するという江戸湾防備体制を確立した。

ただし、台場の建造が始まるのは、ペリーが来航した嘉永6年(1853)からで、勘定奉行松平河内守近直、伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍ら5人に台場普請と大筒鋳造が命じられた。当初の計画では、猟師町から深川須崎(江東区)までの海岸沿いに2列11基、猟師町の海岸に1基、合計12基の台場を建設する予定であったが、実際には費用不足と日米和親条約の締結により、1・2・3・5・6と猟師町砲台の6基が完成したのみで、4番・7番は中途、8番以下は着手されずに終わった。

本絵図には猟師町砲台が描かれていないので、嘉永6年時の台場構想とは若干異なることになる。また、11基すべてが書かれているので、完成後の台場を描いたものでもない。その点で、本絵図は忠邦が忍・川越領藩に指示した台場の構想図であった可能性は十分にある。

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