貴重資料

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水野忠邦公御肖像

史料群

水野家文書

分類記号

F1-9

作成(内容)年代

天保期

西暦

不詳

点数

1軸 桐箱入

法量

120*64

備考

[参考文献]北島正元『水野忠邦』(吉川弘文館、人物叢書154、1969年), 藤田覚『水野忠邦 政治改革にかけた金権老中』(東洋経済新報社、1994年)

説明

江戸幕府老中として天保の改革を推進した水野忠邦(1794~1851)の肖像。忠邦は、肥前国唐津藩主水野忠光の次男として生まれた。母は側室中川恂。

忠邦の着用している衣装は束帯といい、神事祭事や将軍宣下などの重要儀式の時に用いる武家の正装にあたる。手に木笏を持ち、蒔絵の剱を帯し、黒の袍(ほう)を着用するのは四位以上の武家で、五位の者は浅緋色、蒔絵の太刀となる。袍には薄く丁子唐草の模様が描かれている。忠邦が従四位下に任じられるのは、文政八年(1825)5月15日に大坂城代に任じられた時で、32歳のときである。忠邦が念願の「青雲の要路」たる老中職につくのは、天保5年(1834)3月1日、41歳のときである。嘉永4年(1851)2月16日に死去。享年58歳。

画像は忠邦の死後に遺影を作成されたものと推定されているが、その姿は「青雲の要路」にあった壮年期を描いたものであろう。

忠邦の性格は剛腹と伝えられるが、細面に切れ長のつり目という面立ちはいかにも神経質そうな印象をあたえる。ところが、よくみると口ヒゲと顎ヒゲをたくわえており、ここに男性的な「強さ」を表現させたのであろう。江戸期の大名の肖像画でヒゲが描かれることは少ないので、その点でも興味ぶかい肖像画といえる。

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