貴重資料

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非常色分絵図

史料群

水野家文書

分類記号

D1-15

作成(内容)年代

不詳

西暦

不詳

点数

1枚

法量

41*53

備考

封筒

参考文献

玉野惣次郎編『大名小路から丸の内へ』(菱芸出版、1999年)

説明

表題は内容から推定したもの。江戸で火事が発生したさいには、江戸城防備のため諸大名に登城が義務づけられていた。本絵図はその制度を色分けで示したもので、緑色は出火時にはすぐ登城する大名家(「此色之場所出火有之候節者被仰合無之御登城」)、赤色は幕府の指示にしたがって登城する大名家(「此色之場所出火有之候節者被仰合之上御登城」)とされた。外様・譜代にかかわらず、江戸城を中心に同心円の内側(緑色)・外側(赤色)という構成がとられていたことがわかる。なお、図中の黄色は道路、青色は堀で、橋にはそれぞれ橋名がある。「丁ヤ」とあるのは町人地で、鎌倉町・皆川町などには赤色が塗られている。

水野家の屋敷は、「水野和泉守」の名が大名小路上側(緑色部分)に見える。右側隣地は織田信濃守屋敷、左側隣地は松平周防守屋敷、裏側には林大学頭(大カク)がある。大名小路とは現在の丸の内一帯をさし、絵図では和田倉門・馬場先門・数奇屋(スキヤ)橋・鍛冶橋・呉服橋・道三橋に囲まれた一帯で、とくに中央に走る道を大名小路と言った。現在では、有楽町の旧そごう百貨店脇から北へ、三菱銀行本店、丸ビル、新丸ビル前をへて永代通りまでの都道の一部である。老中・若年寄をはじめ、有力諸大名が上屋敷を拝領し、評定所・伝奏屋敷・南北町奉行所・定火消屋敷などが置かれた。

水野忠邦は、老中を勤めた間の弘化元年(1844)2月22日 から翌2年6月6日までの間、大名小路に上屋敷を拝領し、以後は麻布市兵衛町内に移った。水野家が大名小路に上屋敷を拝領したのはこの時期以外はないので、絵図は弘化期の火事登城制を示したものである。天保期は江戸城下では火事が続き、天保9年(1838)3月10日の西の丸全焼では初めて町火消しが城内に入った。こうした事態を背景に、作成された絵図であろう。

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